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神戸地方裁判所尼崎支部 昭和61年(ワ)453号 判決 1992年11月26日

主文

被告学校法人兵庫医科大学は、原告に対し、二〇〇〇万円及びこれに対する昭和六一年八月一七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二 原告のその余の請求を棄却する。

三 訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担とし、その余は被告学校法人兵庫医科大学の負担とする。

四 この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

理由

一  請求原因1(当事者及び治療契約の締結)の事実は、当事者間に争いがない。

二  請求原因2(医療事故の発生及び経過)について

1  請求原因2(一)の事実については、原告が昭和二四年八月六日生まれであること、昭和四四年ころより足がしびれるようになり、昭和四四年二月二三日に明和病院に入院し、癒着性脊髄膜炎と診断され、牽引等物理療法を受けたこと、身体障害五級の認定を受けたこと、昭和四七年三月二〇日に退院したこと、一本ステッキで歩行していたことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実、《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

原告は、昭和四四年八月ころ、両下肢のしびれ感が、大腿部に生じ、ついで下肢の痙攣が生じ、しびれ感は下腿部に進展して歩行障害も生じ、その後、震えも生ずるようになつた。そして、昭和四五年二月ころ、震えが増強して両下肢の完全麻痺となつて、明和病院に入院した。同病院ではミエログラフィーや血液検査等を行つて、癒着性脊髄膜炎との診断を受け、手術は不可能であるとのことで骨盤牽引等の治療を受けた。その後、昭和四六年から理学療法を始め、下肢の運動範囲が改善し始め、同年八月から松葉杖歩行が可能となつた。入院中に下肢の知覚脱失を生じたが、知覚鈍麻程度に改善し、昭和四七年三月に退院し、一本ステッキで歩行していた。なお、入院中に、リハビリテーションの際に階段から落ちて肋骨を骨折したことがあつた。

入院中の昭和四六年二月一八日に、身体障害者第一級相当の診断を受けたが、その後のリハビリテーションを主体とした治療で症状が徐々に緩解し、下肢装具装着の必要がなくなり、退院後の昭和四七年一二月六日に、身体障害者第五級相当の診断を受け、昭和四八年二月一七日に、癒着性脊髄膜炎、両下肢痙性麻痺の障害名で障害等級五級の身体障害者手帳が兵庫県より原告に対して交付された。

2  請求原因2(二)の事実のうち、原告が昭和四九年六月一九日に入院したことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実、《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

原告は、紹介を受けて、昭和四九年六月一二日に被告病院を初めて受診したが、このころには、下肢の痙攣、歩行障害、下肢の痺れ、軽度の排尿障害があつた。明和病院を退院した後は通院で理学療法を受けていたが、昭和四八年秋頃からこれを休んでいるためか、下肢の筋力が低下してきていた。また、仕事の関係でやや鬱状態になつていた。

原告は、歩行障害を主訴とし、リハビリテーションを目的として被告病院を受診したのであつたが、被告圓尾に、被告病院ではリハビリテーションだけで入院することはできないとの説明を受け、同年同月一九日、検査を目的として被告病院に入院した。被告圓尾は、明和病院の医師から原告の症状が癒着性脊髄膜炎にしてはおかしいとの相談を受けていたものであり、原告の症状の原因を究明する必要を感じていたものである。

なお、原告は、手指が変形し、膝関節部に骨性腫瘍ができていたのであるが、これに対する処置は望んではいなかつた。

3  請求原因2(三)について、《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

三回に及ぶミエログラフィー検査を含む諸検査の結果、昭和四九年七月一一日、原告の疾患が、癒着性脊髄膜炎ではなく、多発性骨軟骨腫の一部が脊柱管内に発生して脊髄を圧迫しているものであることが判明した。このように、脊髄に骨軟骨腫が出来るものは非常に稀な例であつた。

被告圓尾は、右骨軟骨腫を放置しておくと、ちよつとした外傷によつても麻痺がくることがあり得ることであり、原告は当時二〇代の将来ある青年であつたことから、椎弓切除術によつてこれを切除し腫瘍を摘出して、原告の歩行障害等の原因を取り除くことがのぞましいと考えた。原告の症状は、痙性麻痺が強かつたので、この痙性の原因を取り除くことにより装具なしで歩行ができるようになるなど機能回復が期待できた。

そして、翌一二日の中野教授の診察の際、右手術の施行が決定され、手術日の予定が二三日と定められ、一〇〇〇ミリリットルの輸血用血液が手配されることになつた。

原告は、被告圓尾または原告の主治医である藤井医師から、三回目のミエログラフィー検査の結果が判明した際に、頚のところに骨ができており、これが原告の症状の原因であること、これが大きくなつてくると呼吸器系の神経を圧迫して息がつまるおそれがあること、健康体を一〇〇パーセントとすれば、手術によつて骨をとればその六〇または七〇パーセントくらいまで機能回復が期待できること等について説明を受けたが、手術自体が危険であることや、場合によつては下半身が麻痺するおそれがあることなどについては説明を受けていなかつた。原告は、同室の患者で頚を手術し、四日目くらいから歩いていた人がいたことから、自分もそのようになることができると思い、その場で手術を受けることに同意した。

これに対し、被告圓尾は、手術の場所が頚椎の一番下から胸椎部にかけてであり、ここは一番血行が悪く危険なところであるが、手術をすれば原告の麻痺が良くなる可能性があると説明し、あとは原告の選択に任せたと供述している。しかしながら、右認定のように、原告には、手術を受けるかどうかについて全く躊躇したあとが見られず、両親などと相談したあとも認められず、また、被告病院側でも、原告の疾患が判明した翌日には手術の予定日を決定しているのであり、これらに照らすと、手術の危険性に関して十分な説明があつたとは考えられず、この点に関する被告圓尾の供述部分はにわかに信用することができない。

もつとも、原告は、被告圓尾または藤井医師から、神経をさわるところではないので、歩けない状態になるような心配はない旨の説明を受けたと供述しているけれども、後記のとおり、本件手術は椎弓切除を行つて、骨性腫瘍を摘出するというものであり、かかる手術態様からして、被告圓尾らが右のような説明をするとは通常考えられず、被告圓尾の右部分に関する供述に照らすと、原告の右供述は、何らかの素人的な誤解にもとづくものと考えざるを得ない。

4  請求原因2(四)の事実は当事者間に争いがなく、右当事者間に争いのない事実に、《証拠略》を総合すれば、手術経過に関して次の事実を認めることができる。

昭和四九年七月二三日、一三時五五分から一五時五五分までの二時間をかけて、原告に対する本件手術が行われた。執刀医は被告圓尾、助手が中野教授(指導のため)、藤井医師であつた。

手術の方式は、桐田式椎弓切除術であり、原告の体位は腹臥位で、頚椎ができるだけ前屈位に固定された後、手術が開始された。被告圓尾が、原告の第四頚椎から第三胸椎に至る正中切開を加え、傍脊椎筋を両側に分け、第六頚椎から第一胸椎の棘突起を切除後、第七頚椎から切除したところ、第七頚椎から第一胸椎、椎弓間右側には通常あるはずの黄色靭帯はなく、骨性に癒着しており固かつた。このため、第六頚椎から第一胸椎の健常部から椎弓切除を行つたが、第六、第七頚椎間、第七頚椎、第一胸椎間は、腫瘍が硬膜を抑えているために、椎弓と硬膜は非常に狭く、硬膜の緊張が著しかつた。そこで、被告圓尾は、サージカルエアトームで椎弓を薄くした後、リウエルで入念に椎弓切除を行つた。

脊髄は、右方の椎弓根部より突出した骨性腫瘍で、腹側より右方から左方に向け、著明に圧迫されており、硬膜を剥離すると、外骨腫の突出と先端部の軟骨が認められた。上下、側方に十分除圧し、脊髄の移動性をできるだけ薄くしたのち、腫瘍を摘出した。根部から末梢に向けて小塊ずつ入念に摘出したところ、次第に、硬膜の膨隆が見られた。

周辺部もできるだけ除圧した後、生食水にて洗浄した。それから皮膜をとじ、筋膜及び皮膚をとじて手術を終わつた。

なお、手術前に輸血用に予定していた血液は一〇〇〇ミリリットルであつたところ、手術中に合計一四〇〇ミリリットルの出血があつたが、とくに、一五時一五分ころには一九〇ミリリットルの出血があつた。また、手術後も出血があり、同日中の輸血総量は一六〇〇ミリリットルに及んだ。

また、血圧については手術開始後一五時一〇分ころまでは収縮期九五ないし一〇五、拡張期七〇ないし八〇の範囲内で経過していたところ、一五時一五分以後は、収縮期八五ないし一三五、拡張期六〇ないし一一五と、変動が激しくなつた。

5  請求原因2(五)の事実は当事者間に争いがない。

6  請求原因2(六)のうち、原告が、手術直後から、頚部からの出血とともに頚部の浮腫、腫脹が持続し、下肢の知覚運動が回復しなかつたこと、手術後三週間程してからリハビリテーションを開始したが、四肢機能は回復せず、昭和四九年一〇月ころには歩行も不可能で、車椅子にひとりで乗ることもできなかつたこと、昭和五一年一二月一八日、兵庫県から、脊髄損傷、両下肢機能全廃の障害により、身体障害一級の認定を受け、障害者手帳の交付を受けたこと、以上の事実については当事者間に争いがない。

7  請求原因2(七)の事実は当事者間に争いがない。

三  請求原因3(医師の過失)について判断する。

1  請求原因3(一)(安易な手術の施行決定)について

前記二3認定事実、《証拠略》によれば以下の事実を認めることができる。

原告の疾患は、癒着性脊髄膜炎ではなく、多発性骨軟骨腫の一部が脊柱管内に発生して脊髄を圧迫していたものである。骨軟骨腫とは、軟骨でおおわれていた骨性隆起が骨より突出したもので、別名、外骨腫ともいわれる。小児期に発生し、成長期に増大が著明となり、骨端線の閉鎖とほぼ平行して腫瘍の成長は停止するため、手術時二四歳であつた原告について、これ以上腫瘍自体が成長することは考えにくいが、腫瘍が脊髄を圧迫することによつて出現していた原告の症状に関しては、明和病院における骨盤牽引等の保存的治療によつて軽快したが、保存療法中止後数か月で下肢筋力が低下し、歩行障害が認められたというものであつた。

頚部脊椎骨軟骨症の手術については、(1)入院の上、持続的頚椎牽引をグリソン氏係蹄を用いて一日二三時間行い、二、三か月行つても改善をみないもの、(2)右保存的療法によつて、諸症状が軽快しADL支障がないか、症状の緩解をみても保存的療法中止後四か月以内に再発するか、増悪してくるもの、(3)髄節性または脊髄性症状あるいは両症状が重度でADLに中等度以上の支障をみる場合は、エックス線所見、ミエログラム所見を勘案して、ただちに手術適応とする、すくなくとも膀胱直腸障害出現以前がのぞましい、とされており、また(4)エックス線的に頚椎管狭窄性を認めるもの(前後径一一ないし一二ミリメートル)は絶対の手術適応であるとされている。

原告の場合は、(2)に該当するので手術適応にあると認められ、また、原告の右骨軟骨腫を放置しておくと、ちよつとした外傷によつても麻痺がくることがあり得ることであり、更に多発性の場合約二〇パーセントが軟骨肉腫となるおそれがあるが、椎弓切除術により歩行障害等が回復する可能性が認められ、それ以外の理学的療法などでは機能回復が望めるものではなかつたものと認められる。

以上によれば、被告圓尾らが理学療法を先行させることなく手術の施行を決定したことに、過失は認められない。

2  請求原因3(二)(説明義務違反)について

前記二3認定のとおり、原告は、手術自体の危険性や、場合によつては下半身が麻痺するおそれがあることなどについて十分な説明を受けておらず、手術の危険について全く検討しないまま、症状の回復程度のみを考えて手術の施行に同意したものと認められる。

しかしながら、《証拠略》によれば、桐田式の提唱者である桐田良人医師が、頚部脊椎骨軟骨症の患者について広範囲同時除圧式椎弓切除術を行つた九〇例の成績は、著効三九・四パーセント、有効三八パーセント、不変一六・九パーセント、悪化五・六パーセントであり、悪化の例はいずれも本術式を確立途中の初期のものばかりであつたとされており、桐田式椎弓切除術は本件手術の行われた昭和四九年ころにはかなり一般化していたと認められる。

そうすると、前記1のとおりの手術による歩行障害等の回復への期待や、放置しておいた場合にちよつとした外傷により麻痺がくることがあり得ることを考慮すると、本件手術実施自体による下半身麻痺の発生の危険性は、通常患者が手術の施行をためらうほど高かつたとは認められないのであつて、手術の危険性に関する説明が不十分であつたことと、原告の後遺障害との間に、因果関係はないものといわなければならない。

3  請求原因3(三)(手術手技の過誤)について

(一)  前記二2、6認定のとおり、原告の手術後に生じた両下肢機能全廃の症状は、手術前の歩行障害等の症状とは、質的に異なるといつてよいほど重篤なものであり、これが、手術直後からの一連の経過をたどつて生じたものであることからすると、原告の後遺障害が本件手術の際に生じた何らかの原因によるものであることは明らかである。

(二)  さらに、以下に述べるように、原告の手術中から手術後にかけての多量な出血を併せ考えると、本件手術の際に、被告圓尾によつて原告に対して、桐田式椎弓切除術の施行によつて予想される範囲を超えた、何らかの侵襲が加えられたものと推定される。

すなわち、《証拠略》によれば、広汎同時除圧椎弓切除術(所謂桐田式椎弓切除術)では、手術時間は一時間半ないし二時間、出血量四〇〇グラム内外で輸血は行わないこと、しかし、日常血圧が高く、変動しやすい症例では時に一〇〇〇グラムの出血をみるので、かかる症例では一応輸血の準備を必要とするとされていること、頚椎後縦靭帯骨化症に関して、椎弓切除術では一五〇〇ないし二〇〇〇立法センチメートルの出血をみるのも珍しくないこと、が当時の標準的医学文献により承認されていることが認められる。

そして、《証拠略》によれば、原告の入院時の血圧は収縮期一一四ミリメートル、拡張期六八ミリメートルと認められるので、原告の日常的な高血圧は否定される。また、前記二3ないし5で認定したとおり、予め手配された輸血用血液は一〇〇〇ミリリットルであるところ、原告の手術中の出血は一四〇〇ミリリットルであり、手術後も出血があり、手術日当日中の輸血総量は一六〇〇ミリリットルに及び、更に、翌日二四〇〇ミリリットル、翌々日四〇〇ミリリットルの輸血が行われている。この点について、被告らは、原告は、文献に挙げられている頚椎症の場合とは異なり、腫瘍があるうえに、頚椎部よりも心臓に近いため出血しやすい胸椎部にかかつている症例であつたから、出血が特に多かつたとはいえない旨主張するが、《証拠略》によれば、原告は、輸血に関して藤井医師から、手術前に三本(六〇〇ミリリットル)くらいしか使わないだろうが、一応五本(一〇〇〇ミリリットル)用意すると説明されており、また、原告の手術に関して随分献血があり、そのことに関して新聞に投書が載つていたとの事実を認めることができるので、これに照らすと、前記手術中から翌々日までの出血量は、原告の部位及び腫瘍の存在を考慮したとしても、なお、手術の際に不必要な侵襲がなかつた場合に予想される範囲を超えて、多量であつたと認めざるを得ないから、被告らの右主張は採用できない。

(三)  そして、《証拠略》において、桐田式の椎弓切除術に際しては、変性した脊髄ほど易損性の高いことに留意し、手術による機械的な影響がたとえ些細だと考えられても、それは重大な結果--永久的四肢麻痺に通ずることを常に念頭におき、出血、乾燥、術中術後の血圧の変動、術後体位等あらゆる点が変性した脊髄につよい影響を及ぼすことに思いをいたし細心の注意と慎重な配慮のもとに対処する必要があると述べられていることからすれば、原告の特意体質あるいは不可抗力等、原告の症状の発生に対する説得的な他原因の認められない限り、原告の後遺障害は、脊柱管内の骨軟骨腫によつて圧迫されていた脊髄が、手術の際の何らかの過誤により、機械的な影響を受けて損傷したことによるものであると推定されるべきである。

(四)  そこで、不可抗力に関し、被告らは、極力脊髄に対する愛護的操作を行つても、不幸にして麻痺の増悪を招くことが避けられない場合もあると主張するのでこの点について検討する。

《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

椎弓切除術自体は古くからある術式であるが、従来の術式では、手術手技そのものによつて変性した脊髄に直接的に機械的損傷を与え、術後麻痺の発生や増悪をみる症例があり、手術成績は悲観的であつた。桐田良人医師は、頚部脊椎症や頚椎OPLL(後縦靭帯骨化症)による多数の手術経験と反省より、昭和四三年ころ、新しい椎弓切除の術式を確立し広範囲同時除圧式椎弓切除術と呼んだ。これにより飛躍的に手術成績の向上をみたことは特筆されるべきことである。右術式は、エアードリルを導入したことにより、導入以前にスタンツェを用いていた事例と比較して、術後成績を大きく向上させた。

本件手術は、昭和四九年に行われているが、このころには、右桐田式の椎弓切除術はかなり一般化してきていたものである。なお、桐田良人医師が、頚部脊椎骨軟骨症の患者について広範囲同時除圧式椎弓切除術を行つた九〇例の成績は、著効三九・四パーセント、有効三八パーセント、不変一六・九パーセント、悪化五・六パーセントであり、悪化例はいずれも本術式を確立途中の初期のものばかりであつたとされている。

初期においては、椎弓の削除中に誤つて硬膜を損傷する危険が指摘されており、小野村敏信医師は、昭和四九年に、より安全な方法として、椎弓側方にリーミングを行い、中央部は可及的の削除にとどめ、うすくなつた両側部を鋏刀もしくは骨噛子によつて切離し、幾つかの椎弓及び弓間靭帯を鎧のひたたれのように一枚つづきにめくり挙げて切除する方法を報告している。また、その後、椎弓切除術の頚椎の不安定、頚椎変形、硬膜瘢痕形成による癒着や絞扼の発生を予防する目的で骨形成的椎弓切除術(頚部脊柱管拡大術)が広く行われつつある。

手術部位については、腰椎部、頚椎部に比して、胸椎部は困難である。

以上により検討するに、前記二4のとおり、本件手術は第六、七頚椎から第一胸椎にかけてであるところ、これが、腰椎部や頚椎部に比較すれば、難易度の高い手術であり、また桐田式椎弓切除術についてはその後も改良ないし他の方法が考案されてきていることが認められるが、だからといつて昭和四九年当時において、右部位における本件手術の結果回避が不可能あるいは著しく困難であつたといえるほど困難な手術であつたとまでは認めることはできない。もし、仮に、当時の術式により結果回避が不可能あるいは著しく困難であつたとすると、そのような手術の実施自体(三1)が問い直されなければならないことになる。他に不可抗力を認めるに足りる証拠はなく、被告らの右主張は採用することができない。

(五)  また、被告らは、原告の脊髄変性が術前に不可逆的な段階にはいつていた可能性を主張するけれども、右可能性を認めるに足りる証拠はない(なお、被告圓尾は、本件手術の際に、硬膜を開けておらず、中の脊髄の状態はみていないため不明であると供述している)。

4  請求原因3(四)(術後管理の過誤)について

《証拠略》によれば、もし血圧が低下し七〇ミリメートル以下となれば、それだけで変性した脊髄に重大な影響を与えるので、一二〇ミリメートル以上の血圧維持が必須条件であるとされている。また、《証拠略》によれば、血圧の急激な降下による麻痺が回復するには二か月を要するので特に注意することが肝要であるとされている。

そして、原告の血圧降下については、前記二4、5のとおりである。

しかしながら、前記のとおり機能的損傷の推定される本件においては、血圧降下が持続したという事実のみからは、血圧降下に対する処置が不適切であつたとは推定できないというべきであり、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

なお、被告らは、最近の研究によれば、血圧の低下は必ずしも脊髄の血流量低下、脊髄麻痺を招くという単純なものではないことが報告されていると主張するが、《証拠略》は、末梢神経刺激による腰部神経根及び腰髄の血流量の変化をみる動物実験(イヌ)の報告であつて、血圧低下に関する前記各証拠に照らすと、本件のように骨軟骨腫によつて圧迫を受けていたような脊髄に関してまで、右実験報告をそのままあてはめることは相当でないというべきであり、《証拠略》は、脊髄手術の際の低血圧麻酔の導入に関するものであるが、同文献によつても、長時間の低血圧状態は望ましくないとされているのであり、前記二4、5で認容したように、手術中から数日間にわたつて血圧が変動し、血圧降下が持続した原告について論ずるには妥当な文献であるとはいえない。他に右被告主張を根拠づけるような証拠はない。

四  以上のとおり、原告は、被告圓尾の手術手技の過誤によつて、両下肢機能全廃の後遺障害を負うに至つたと認められるので、以下、請求原因4(損害)について判断する。

1  逸失利益 六四四万九〇一二円

以上認定したところによれば、原告は、本件事故により両下肢の機能が全廃となり、労働能力を一〇〇パーセント喪失したものであるが、被告病院入院前に、癒着性脊髄膜炎、両下肢痙性麻痺の障害名で五級の身体障害者手帳が交付されており、このころから既に、労働能力を七九パーセント喪失していたものと認められる。従つて、本件事故による労働能力喪失率は二一パーセントとするのが相当である。

原告は、本件事故のあつた昭和四九年七月二三日現在満二四歳であり、本件事故がなければ、少なくとも、昭和四九年賃金センサス第一巻第一表全国性別・年齢階級別・年次別平均給与額表(一般労働者)に定める男子二四歳の労働者が受給している給与・賞与等の平均支給額である年間一三五万八二〇〇円の二一パーセントである二八万五二二二円を、満六七歳までの四三年間得ることができたと推定される。これを、新ホフマン式計算法により中間利息を差し引いて計算すると、次のとおりである。

28万5222円×22.6105=644万9012円

(四三年間の新ホフマン係数=二二・六一〇五)

2  慰謝料 一二〇〇万円

原告は、本件事故の直前までは、両下肢痙性麻痺で身体障害五級相当の状態であつたが、本件事故により両下肢機能全廃の障害を受け、回復の望みを失つたものであり、前記諸事情を考慮すれば、原告の受けた損害は一二〇〇万円をもつて相当とすべきである。

3  入院諸雑費 四一七万円

原告は、本件事故により、手術の翌日である昭和四九年七月二四日から同六〇年一二月二七日まで(四一七五日間)、被告病院に入院していたところ、右期間の入院諸雑費として一日一〇〇〇円を要したとみるのが相当であり、合計四一七万五〇〇〇円となるところ、原告の請求する四一七万円をもつて相当とすべきである。

4  付添看護料 二〇八五万円

原告は、本件事故により両下肢機能全廃の障害を受け、車椅子の生活を余儀無くされ、付添看護を要するようになつたところ、右付添看護料は、入院期間中一日五〇〇〇円を要したとみるのが相当であり、合計二〇八七万五〇〇〇円となるところ、原告の請求する二〇八五万円をもつて相当とすべきである。

5  弁護士費用 二〇〇万円

前記諸事情及び原告請求額を考慮すれば、原告の弁護士費用のうち、被告らが負担すべきは二〇〇万円をもつて相当とすべきである。

6  以上1ないし5を合計すると、四五四六万九〇一二円となる。

五  抗弁について

1  手術後から原告が本件訴え提起に至るまでの状況について

前記二6記載の当事者間に争いのない事実に、《証拠略》を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

昭和四九年七月二三日、原告に対する本件手術終了後、被告圓尾から、原告の父及び義兄に対し、手術により取つた原告の骨腫をみせて、手術の説明がなされた。その後、原告は、予定されたような回復をすることなく、頚部からの出血とともに頚部の浮腫、腫脹が持続し、下肢の知覚運動が回復しなかつたものであるが、これについて、藤井医師から、頚の腫れが退かないため圧迫されているという説明がなされたものの、手術との関連や原因などについて、被告病院のどの医師からも説明を受けることはなかつた。

被告圓尾は、手術後半年ないし一年ほどたつた段階で、原告の下肢機能の回復の見込みは全くないものと判断するに至つたが、同被告もしくは原告に接するどの医師からも原告に対して、そのような事実は全く告げられなかつた。それどころか、昭和五〇年から五一年ころ、藤井医師の後任である畑中医師より原告に対して神戸市西区玉津所在の兵庫県立リハビリテーションセンターへ移つて機能回復訓練を行うようにしたらどうかとの助言がなされたこともあり、原告は、その後、右助言に従い同センターを見学に言つたが、それから間もなく原告に可成り重度の褥瘡が生じ、その手当てに追われることになつたため(右褥瘡は、結局、原告が被告病院を退院するに至るまで全快しなかつた)、同センターへ移る件は、そのまま立ち消えとなつてしまつた。このような被告病院側の対応から、原告は、リハビリテーションに精励すれば、下肢機能が回復し、入院時あるいはそれ以上の状態で退院できるとの期待を失なうことなく抱き続け、その後の入院期間中を通じて、同病院理学療法室において、歩行訓練を中心としたリハビリテーションに極めて強い熱意をもつて取り組み続けたが、右リハビリテーションが下肢機能の回復目的という意味では全く無駄な努力であつて、徒労に過ぎないことを原告に説明する者は、医師を含めて被告病院内においては誰一人としていなかつた。

その後、右畑中医師作成にかかる障害程度一級相当との昭和五一年一一月二日付診断書を添付した障害程度の変更を理由とする原告側の身体障害者手帳再交付申請に基づき、昭和五一年一二月一八日、癒着性脊髄膜炎、脊髄損傷、両下肢機能全廃との障害名が記載された障害等級一級の身体障害者手帳が兵庫県より原告に対して交付された。尤も、右身体障害者手帳の再交付を受ける手続きは、すべて原告の父親が行つたため、右手帳の記載内容を原告が実際に見たのは、交付を受けてから遅くとも三年経過後のことだつた。ところで、右の如き長期間にわたる懸命のリハビリテーションにも拘らず、下肢機能回復のきざしも見えないことから次第に焦慮するに至つた原告は、昭和五四年ころ、畑中医師に対して、自己の正確な病名を尋ねたところ、同医師は、今更知らないでもいいではないかと述べたうえ、再手術はできるが、今は時期ではないなどと客観的事実とは異なる不正確な説明を行い、その場を糊塗した。

このように、原告は、両下肢の麻痺が不可逆的状況にあることについて知らされておらず、また、リハビリテーションをしても機能が回復してこないことについて、漠然と被告病院の手落ちではないかと考えることもあつたが、なお、自分の足で歩けるようになることを期待してリハビリテーションに取り組んでいたものであるが、昭和五五年に、被告病院に入院してきた大久保和人(以下「大久保」という)と親しくなり、同人が医療過誤について詳しい知識を有することから、いろいろな話をするようになつた。大久保は、同年中に退院したが、その後も原告を見舞つて親しく話をするうちに、原告は、自分の症状について被告病院に責任があるのではないかというような話もするようになり、昭和五九年ころ、大久保から知つている弁護士がいるので相談したらどうかと言われ、原告は、いろいろ考えた末に、昭和六〇年はじめころ、原告代理人弁護士らに被告病院原告の病室に来てもらつて面談した。そして、その後、本件訴訟の提起を決意して、昭和六〇年一二月二七日に退院した。

2  不法行為に基づく損害賠償請求の消滅時効について

以上を前提に検討するに、医療過誤において、不法行為に基づく損害賠償請求の消滅時効は、一般的にいえば、医師の診療行為によつて悪結果が発生し、それが医師の過失によつて生じたことを患者が知つたときから進行が開始するということができる。

原告は、本件手術が終わつてからずつと、手術に手落ちがあつたと考えていたと供述しているが、医療行為は、その性質上、通常の一般の不法行為の場合と異なり、医師の過失の有無は容易に一般人には知りえないところであるから、原告が手術直後から、手術に手落ちがあつたのではないかと考えていたとしても、手術後、予定されていたような回復経過をたどつていないということからくる単なる危惧や憶測に止まつている段階であつたというべきであり、右原告の供述から直ちに、原告が被告病院側の過失を知つていたと認めることはできない。手術後しばらくは、藤井医師も、頚部の腫れが退かないことが原因であると説明していたのであり、この段階では、障害の発生さえ顕在化していない。

しかしながら、その後、歩行訓練を含むリハビリテーションを続けていても一向に回復のきざしがみえない状態が続き、さらに、右に加えて、前認定のとおり遅くとも昭和五四年末頃までには障害等級一級を認定した身障者手帳に記載された脊髄損傷、両下肢機能全廃の障害名の記載を読んでいるのであるから、直接医師の告知を受けずとも素人なりに永久の障害であると気付くにいたるのが通常であり、また、右障害が、手術直後からの一連の経過をたどつて出現したものであることからすれば、通常人であれば、障害が手術に基づくものであり、被告病院医師らの過失によるものであるということについて認識することができたというべきである。

従つて、手術から五年以上過ぎ、右身障者手帳に記載された障害名を知るに至つた昭和五四年末ころには、原告は、損害及び加害者を知つていたものというべきであり、右時点から三年の経過をもつて、不法行為にもとづく損害賠償請求権の消滅時効は完成したというべきである。

3  債務不履行に基づく損害賠償請求に対する時効消滅について

一般に消滅時効は、権利を行使することを得る時から進行するが、これを厳密に法律上の障害がなくなつた時と解すると、法律的に権利が発生していたか否かが裁判において始めて明らかになる場合も少なくなく、債権者とりわけ本件のような診療契約における医学的知識の面では素人である患者などに、その判断の危険を負担させることは酷である。従つて、権利を行使することを得る時とは、債権者の職業、教育など、あるいは権利の性質、内容などから権利を行使することを現実に期待ないし要求できる時と解すべきである。

これを本件について検討するに、前記五1認定のとおり、手術後しばらくは、藤井医師も、原告の症状は頚部の腫れが退かないことが原因であると説明していたのであり、また、被告圓尾も、原告の症状が不可逆的なものであると判断するに至るまでに半年ないし一年を要しているのであつて、この段階では、再手術などによる完全な履行の可能性が失われておらず、損害賠償の請求をなすべき法律上の障害が消滅したということはできない。また、被告圓尾が右のような判断をした後も、原告に対しては何らの告知もなく、原告は下肢機能の回復の期待を持つて、歩行訓練を含むリハビリテーションに取り組んでいたものであるから、何ら医学的な専門知識を有していない原告は、手術債務の不完全なこと(手術により、永久的な障害を受けたこと)を認識するには至つていなかつたものと認めるのが相当であり、このころまでは、損害賠償請求権の現実の行使を期待することができなかつたと認められるから、その間、消滅時効は進行していなかつたというべきである。

原告が右の点を認識するに至つたのは、早くとも、等級一級の認定を受けた前記身体障害者手帳の記載内容、とくに前記障害名を知るに至つた昭和五四年末ごろであつたというべきであり(不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点に合致する)、そうとすれば、本件訴訟提起が昭和六一年七月二四日であり、被告病院に対して訴状が送達されたのが同年八月一六日であることは記録上明らかであるから、未だ一〇年を経過しておらず、債務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効は完成していないものと認められる。

六  再抗弁について

前記五2のとおり、不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効は完成したものと認められるので、右消滅時効の援用が権利濫用であるとの再抗弁について判断するに、手術後の状況は、前記五1認定のとおりであり、被告病院側が、原告の権利行使を妨げる目的で原告の入院を継続させたことなどや、その他、被告らの時効の援用が権利濫用であることを認めるに足りる事実は、本件全証拠によつても認めることができない。

七  以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は、債務不履行にもとづく損害賠償を求める限度において理由があるので、被告法人に対して、二〇〇〇万円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和六一年八月一七日から支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による金員の支払いを求める限度で認容し、その余は棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 北谷健一 裁判官 大沼容之 裁判官 古閑美津恵)

《当事者》

原 告 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 大石一二 同 大山良平 同 大搗幸男

被 告 学校法人 兵庫医科大学

右代表者理事 古武弥正

被 告 圓尾宗司

右両名訴訟代理人弁護士 米田泰邦

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